前回の続きです。今回は富岡製糸場でつくられた生糸の輸送について書いていきます。
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富岡製糸場を見学して出てきた疑問
富岡製糸場があるのは群馬県富岡市です。
前回書いたように、富岡製糸場がここにつくられることになったのは、
- 周辺で養蚕業がさかんだったこと
- 近くに鏑(かぶら)川が流れていて水を得やすい
- 蒸気機関に必要な石炭が近く(高崎)で採れる
- 農業に適さない広大な土地が確保してあった
- 地元民の理解・同意があった
などが理由です。
これらの理由で内陸部である富岡に製糸場を設立した理由は納得しました。
では、ここでつくった生糸はどうやって運び出したのでしょうか。
富岡製糸場が操業を開始したのは明治5年(1872年)です。
でもその頃日本には、同年に開通した新橋ー横浜間の鉄道しかなかったはず。
1872年
(イヤなにおいの鉄道)って覚えたモン。
・・・人力?馬車?
その謎を解き明かすのが下の地図です。
利根川っ!お前がカギ・・・謎を解くための、カギっ!
利根川は、千葉県野田市の辺りから江戸川に分かれ江戸湾(東京湾)まで下れました。
だから、利根川を利用して、生産した生糸を船で運んでいたということ。
昔から水運が発達してたんですね。
なるほどぉ〜。だから利根川ってよく社会の問題の答えになってたのね。
そりゃ大事な川だからね。覚えないとね。
飲み水、水運、坂東太郎。
山手線は環状線ではなかった
もちろん、ずっと水運に頼るわけではなく、その後に鉄道網が整備されていきます。
1983年になると、上野から群馬県の新町まで鉄道が延びてきます。
ただ、横浜に直接繋がっていませんでした。
当時の鉄道は蒸気機関車です。煙を出すわうるさいわ、で、都心を走れませんでした。
ロンドンやパリやニューヨークの地図を見ると、同じ理由で都市中心部まで鉄道が延びていません。中心部は地下鉄で接続しています。
日本では遅めに産業革命したので比較的すぐに電車が登場し、都心のど真ん中まで線路が延びましたが。
2年後の1885年に、山手線の原形となる赤羽ー品川間が開通し、高崎から横浜までが繋がりました。
山手線は現在のような環状線ではなかったんですね。
ちなみに、山手線が環状線になったのは1925年のことです。
時は過ぎて1908年に、甲信地方で生産された生糸を横浜に運ぶことを目的に横浜線が開通。
さらに1934年になると八高線が全線開通し、八王子経由で高崎から横浜まで繋がります。
このようにして、この地域は、
高崎線・山手線・両毛線・上信電鉄・八高線と横浜線・東武伊勢崎線・東武東上線
といった鉄道網が整備され、高崎は北関東の交通の要衝となりました。
さいごに
正直、富岡に着いて思ったことは、
「まわりに何にもねえ!」
でした。富岡の方、ごめんなさい・・・
しかし、それこそが富岡製糸場がそこにつくられた理由でもあったと。
そして、生産した生糸を運搬する上でもやりやすかったと。
なんか、すげーよく考えてあるなあ。
こういうのを見学すると、昔の人の方が頭良かったんだろうなって思ってしまいます。
現代人はバカになってしまった・・・。
いや、私が普段何も考えていないだけか。